昭和40年03月24日 朝の御理解
「付け焼刃の信心ではとれやすい。どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれ」と。その身から打ち込んだ信心。熱心に毎日お参りがあると、なるほどそれも打ち込まれてなら、打ち込んでおる事ではあろうけども、あながちその身から打ち込んでおるとは言わん。私は思うですね。人に誘われてのしょうことなしの信心では、信心に連れはいらんと仰る。一人ひそかに信心せよと。一人ひそかに信心させて頂く事が楽しゅうなり、有難うなるという信心。ね。
私は昨夜、最後の御礼を申させて頂きます時に、ある婦人の方が綺麗に正装して綺麗に、日本髪を結っておる。そしてあの前に持つ手鏡と後ろ、後ろ鏡と言うですか。この自分の髪質が髪の形を後ろ前からこうやって映して、あのう形を直しておる所を頂いた。あんな情景に、よくあの女の方達の化粧される時なんかがですね、鏡台なら鏡台の前に立ってこう後ろ鏡をこうして後ろの、髪の具合を見ておられるわけなんですよ。
そしたらですね、(?)にちょっと何か言ったら鏡をこう置いてですね、ふっとこう、あの髪を、横へやられる。いわゆる、カツラを被っておられたという事です。下は(あまさり?)。ま、ま、丸、丸坊主。ね。自分の身から終えた物でなからにゃいけんて。生えるとも申します、髪が生えるという。信心が自分の身から心から終え、生えたものでなからなければ駄目だと。色んな事がいくら分かりましてもですね。
いわゆる、なるほど姿形はほんなもんの事、まえま、前髷なら前髷に結い上げてあるのだけれども、そして、それを、いつもやはり教えの鏡に後ろ前から見せ、見て頂いて髪の形が悪くなったり、崩れたりしたら直しもしておるのだけれども、実際はその身からおえた物ではないという事。何かちょっとすりゃすぐ迷うと。何かちょっとした誘惑にかかるとです、もう自分の髪がそこへ置いて信心の無い者、信心薄き者と同じ事になってしまっておるというような事。
どうでしょうかね皆さん一つ、本当にその身から打ち込んだ信心をしてくれと仰るのですから。どんな場合でも迷わんですむ。それはまぁだ結い上げられる程に伸びてはいないと致しましてもです。丁度稽古中のあの関取がまだあの髪が結えん時は、ざんばら髪でこの辺までしておるのがあるでしょうが。ね。そういう程度であってもその髪が伸びて行くという事を楽しみに。伸びたらそれが本当に結い上げられる時を楽しみに。
この信心がです、一つの結い上げられる所までを、楽しみに信心させてもらわにゃ、目先のこの事に楽しみを感じるような信心ではですね、腰掛けたような信心では、いかにも立派に出来ておるようであっても、それはかつら被ったような信心。ね。例えば学生の勉強でも同じ事。すごーい熱心に勉強しよる事ある。けれども、いついつが試験だからと言うて一生懸命勉強しよる。ね。
観客、詰め込み主義。ね。試験があるから勉強しておると言うのでは、その身から打ち込んだ勉強とは、私は言えないと思う。本当に勉強が好き。学問をいよいよいやがうえにも勉強させてもらい、研究させてもらえばもらう程、学問の味わいというか、学問が身に付いていく所のいわゆる学徳が身に付く、付いていく事が楽しみ。ね。そしてそこに、驚異的なというか、たまがるような勉強が出来る。
日に何時間も休みよっては勉強できんと。もう自分の休み時間位の事は、もう問題じゃないです。とにかく勉強が身に付いていくという事が、楽しみでたまらんという信心。おかげば頂かんならんから、毎日お参りをさせて頂いておるというのは、試験を受ける前に勉強しておるようなものですから、試験がすんだら、あぁもうやれやれ。っと言うて(笑)疎かに勉強をするんです。
どうぞその身から打ち込んだとこう仰る。本気で、自分自身が美しゅうなっていくという事を楽しみに。ね。本当に信心が自分の身に付いていくという事が喜び。一つの未知の世界へのあこがれ。私共でもそれです。現在私が分かれいておる事はここまで。私が分かり得ておる事を、もう皆さんに伝えたって皆さんは、おそらく信用しないだろうと思う位な所が、現在私の心の中には開けておる。そしてまたこれが、どういうような世界に到達するだろうか、と思うたらそれが楽しみである。
昨夜も、子供達が、皆さん帰られた後に、長男と長女とそれから二番目の光昭と、それから二番目の愛子と、家内と、内田さん達が親子連れでした。久富先生やら繁雄さん達を送り出した後に、また、そこに座ってから、いよいよ光昭の、今度の進学の事についてから長男が、まぁ、言うて聞かせておるわけです。お父さんが、農芸高校を選びなさったと、どういうわけで、お父さんが農芸高校を選びなさったか。お前そこん所が、ようく根本的に分かっての勉強でなからないけんぞと。
ここん所を本気で一つ分からにゃいけんぞと。教祖の神様の御信心がいうなら、土から生まれたような信心。実意丁寧一筋の信心がああいう御神格、御徳をそして御道の信心を生み出された。その教祖の神様の御信心の御内容を、ね。触れれる為にはどうでもこの百姓の学校が一番とせっかく農芸の、だから例えば、今脚光を浴びておるのがあそこでは庭造りの専門の学校があそこに中にあるんですね。庭園何とかと言う。
それから園芸って言うて果物やら花やら作るという所がある。けども御前の場合はそうではないと。直に土に親しまれる。それをお父さんが選びなさったのはどういうわけか。僕は初めから、こういう学校関係を希望しておった。その事なんか夢にも思うて、いなかった。お父さんからそれを、言われた時には、ね、もうそれこそ、思いもかけない事であったと。僕はここを選ぶと言ったら先生もたまがる、友達もたまがった。
どういうわけか、と言うて皆が笑うけども、僕の気持ちはあん時お父さんから頂いた御理解をです、心に決めてから、その時から、その、僕は腹を腹を決めたという(笑)意味の事を言ってるんです。それでいて、んなら進学がでけんという事じゃあない。ね。だから、就職と進学と両方あるらしいですね。だから御前はその進学の方を取れと。そこから、それを体得してまた大学に行ってもいい。構えが出来さえすりゃ。
それをお父さんが許すに違いないから。けれども、なぜこの学校を選ばれたかという事を、お前が繰り返しして自分の物にしてからの勉強でなからな勉強に身が入らんぞと。例えば、んなら、その農業学校の事ですから、ね、いうなら、畑に出たり田に出たり、場合によっちゃ、肥しかけなんかといった事もあるだろうと。そこは光昭も、要領得てでも、お前が行きよった分じゃ、分かりゃせんぞと。
人がしたがらん、人が嫌がると。というような事に率先して、その中からお父さんが言われる信心の精神を、体得さしてもらい、教祖の神様の御信心の内容に触れていこうという、願いがなからなければいけん、もう、兄弟で一生懸命その事を言って、おるわけです。私それを聞かせて頂いてから有難いなぁと。いわゆる、その身から打ち込んだ、勉強をせなきゃあいけんぞ。それには根本的な所に触れてからのもんでなからなければいけないぞ、というわけなんです。ね。
例えば、お父さんが宗教家。お前は何を望むかと言われた時に僕はお父さんの、信仰を身に付けて僕も宗教家になりたい、とこう、光昭が言うんです。ね。そんならば、この学校選べと私が言ったんです、実は。ね。お前が本当にお父さんの信仰を受け継いで、そして、えー、宗教家になりたいというのならば、お前の今の思いを捨ててしもうてから、農業学校へ行けと。私はそうまた申しました。
その身から打ち込んだ信心が出来る為に、根本的な所に触れてからのものでなからなければ打ち込めないという事。みんな誰でもそうではありません。やっぱり入信の動機というものは、おかげを頂きたいという所からほとんどの人が入っておるのでございますけれども、段々、分からせて頂けば頂く程です。目先の事ではない。本当に信心を自分のものにする為に、身に付けていく為に、信心の稽古をさしてもらうと。
しかも誰彼に勧められたからじゃあない。自分の心から打ち込む為には、いよいよ、自分の信心で培われる所の心の状態と。長男がこんな事も言ってました。光昭、お前がです、ね。宗教家を目指す。そしてなら、お前が、ここの出社としてどこに出ているぞと。その時に、親の里が御ヒレイが立つから、子供の所も御ヒレイが立つちゅう事はないぞと。もう決してこの神様ばっかりはね、もうあの、この神様ばっかりは白真剣、その者の信心一つによることぞと。
お前が例えば一時間ずってもここに、御結界に座らせて頂いたならです、一生懸命に神様を思い自分の心を、思い思うてみれ。そしてこのお届け帳を繰り返し繰り返し、見せて頂いてから、ね、それを繰り返し繰り返し、そういう人達ここにお願いをしてある人達の事を、もう祈り抜かせて頂く位なものがなからなければいけんぞと。ただあそこへ座っとりさえすればええ。ね。そして座る事が楽しみにならにゃいかん。
あそこへ座らせて頂く事が有難い。という事が分からなければ、お前が例えば、いくら宗教家になっても、なら、他に出社を持っても、ね。本家と思わすしとるような事では、おかげは、人も助かりゃせんぞという事も言うてます。御結界に座り抜かせて頂く事の中に、楽しみを感じさせて頂くようになれという事。今の間は僕達の場合なんかでも、俺達の場合でも。まぁ場合によ、場合によっては有難いけれども。
泣く泣く辛抱というとこだけれども、そこば辛抱し抜かなければ出来るこっちゃないぞと。でないなら、ここに座ったら教典を見ております。教典をいわば暗唱しようと。そういう事を話しております。いわゆる、その身から打ち込んだ信心をさせようとする、いわば親方達の願い。弟に対する。ね。教祖の神様を通して、天地の親神様もそれをやはり、私共に願いをかけてござる。信心の根本的な所に触れて。
自分の心の中が高められていく。有難うなっていく。未知の世界への一つの憧れである。今まで知らなかった、いわば世界に入っていけれる楽しみ喜びというものをです。分からせて頂ける事になった時にです。ごまかしは出来ません。ただ、こうだから、はずどるというだけの信心では出来ん。試験がある為に勉強しておるという勉強じゃつまらん。その勉強自体が、好きになり、楽しみになる。
しかもその勉強が身に付いていくという事を、楽しみとしての勉強でなからなければ本当の勉強ではない様に、信心も同じ事。ね。どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれと。付け焼刃の信心では取れやすい。お互いの信心が信心も、一通りは分かった。ね。また打ち込んでもおる。教えを鏡にしたてておる、見よるけれども何でもない時には、ただ自分のその信心の姿形を見て、惚れ惚れとする様であろうけれども。
愈々何かの時には、そのカツらをポンと横に置いてから、もうそちらの方へ手が出ておったり、迷うておったりする様な信心では出来ん。可笑しかったっちゃかんまんと、カツラ被ったもんじゃ何時までも本当の髪は生えんと。赤裸々に。ね。そこからおえてくる所の髪。そこから生えてくる所の信心。身から生えて来る様な信心。ね。心からおえてくるような信心。そしてその髪が長うなって、それを結い上げさせて頂く時の、楽しみとか喜びとかそういうものをです、心に描かせてもろうてからの信心。
それを後ろ前から教えの鏡を、それでも、いつも立てて、いわば、ビンがほつれてはおらんか。格好が悪うなってはおらんか。もう解いていい、洗い上げなければならん時期じゃないかというようにです。やはり鏡を立てて眺めていくという信心なら、いよいよ私は有難いと思う。どうぞ、その身から打ち込んだ信心をしてくれと、神様は仰っておられるのでございますから、ね。その身から打ち込んだ信心にならせて頂こうと、やはり願いを立てなければいけんです。ね。
おかげ頂きました。